原宿へのラブレター

ぼくは年寄りのくせに若者の町原宿が大好きで、日曜日などよく原宿へ行く。NHK放送局の前の並木道で頑張って演奏しているバンドやミュージシャン、アーティストを見るのは楽しい。木に貼ってある「演奏禁止」の札を「演奏歓迎」に書き直したい気持になるくらい、こういう大道パフォーマンスが大好き。大勢の人々がぼくの様にこのオープンエアーパフォーマンスを見る為にここに来るのだと思う。ただで音楽を聞かせてくれるのだから、若い演奏家には感謝の気持でいっぱい。彼らがいなかったらNHK放送局の前の道はつまらない。
原宿の竹下通りとその辺りの店やギャラリー(例:<http://www.designfesta.com/index.html>)等も面白い。そこで最高なのは、山の手線の橋に色々に変装して集まってくる、ファンタスティックで、どう言えばいいのか、突飛な女性達だ。ぼくはいつも思っていた。この世は地味すぎる。ただぼくは派手な洋服を着る勇気はなくいつもジーンズ姿だ。原宿のガール達は凄い!勇気がある。想像力も豊かで、彼女達自身がまるで芸術品になっているみたい。
いや、なっているみたいじゃなくて、彼女達は芸術品そのものだ!
この世には想像力に乏しい芸術家(作家、画家等)が多過ぎる。特に、有名になって、金持ちになり、年を取った芸術家の中には、いつも同じパターンで作品を作り出し、想像力のない芸術家が多い。例えばChristo(いつも同じく何か(橋、建物など)を包む人)の様な芸術家にはがっかりする。一つの思いつきを一生の間やり続けるのだろうか?小説家や漫画家ならたった一ページにもっと豊かな内容を盛り込むことができるのではないか。 職業的に現代アートを作り出す芸術家について批評すれば、表題は”裸の王様” だ。こういう”裸のアーティスト”を栄光の座から蹴落とし、原宿の座へ見習いに行かせたい。

有名になった多くのアーティストはアートを作りだす芸術家ではなく、販売技術者、つまりセールスマンに他ならない。

芸術家とは、人を楽しませ、慰め、あるいは、ショックを与え、時には憤慨させ、つまり人に考える機会を与える者であるべきだ。

メッセージが感じられない、美しさも感じられない、面白さも感じられない作品を見るのは、時間がもったいないと思う。見る人の時間だけではなく、作品を作った人の時間ももったいないと思う。そのあまり意味や楽しさや美しさのないものを描いたり作ったりすることにより、他のもっと大事で面白い事を逸してしまったのではないかと考える...

世の中には、あまり面白くないアーティストより、さらに面白くない暮らしをしている凡庸な人もいる。「出る杭は打たれる」を内面化し、一生目立たない様に努力し、自覚を持たず、ただぶらぶら人生を送っている人達である。そういう人生を送っている人に限って、原宿の超個性的に着飾った若者に対し、執拗なまでに嫌悪感を抱くものである。
また、面白いことに、「出る杭」の諺の張本人である日本人は外国人より「出る杭」に寛容らしい。原宿でよく不寛容な外国人に遭遇する。彼らは断りもなく平気で若者達の写真と撮っておきながら、アリガトウも言わない。さらに外人同士で、「クレージー」等の軽蔑的な言葉を吐く有り様である。まあ、大勢の外人はホームシックのため日本に対してどんな文句を言ってもいいという言い訳ができる...と言う訳?。TBSテレビの番組”ここはヘンだよ、日本人!”では一般の外国人の日本に対する不寛容がよく現れている。
並みの人は、流行の波に翻弄される。彼らはすでに有名人になった人しか崇拝しない。自分の耳を切り取ったゴッホや片頬に目を二つ描いたピカソを崇拝するが、目の前にあるもっとずっと凄いものを、未知、無名なるがゆえに認めることができない。

原宿の若者達は、強制された制服や無味乾燥な学校生活への反発から、爆発的に自由な表現に感情のはけ口を見出した。欧米でも、特にドイツの戦後のベビーブーマーの間で同じ現象が起こった。僕たちも前の保守的な世代に反抗して、髪の毛を伸ばしたり、派手な洋服を着たりし、ヒッピーになった。当時、一般の人々の反応はひどかった。「お前はガス室で殺された方がいい」等との反応は日常茶飯事だった。
一般人の考え方は複雑と同時に単純で、社会の偏見や道徳、好き嫌いなどすべてを自分の判断や差別の材料とする。例をあげれば:「同性愛の合法化?いや、だめ、反対。僕は男とやりたくない。気持ち悪い。」
もっと明確なルールがあるのではないか。例えば「他人に害を与えない事はすべて許される」とか。でも、一般の道徳はそういう容易な判断方法を許してくれないものである。

ところで、道徳とは何か。

道徳といえば、一般に高尚なイメージを抱くものであるが、本当にそうなのか。
「道徳」とはそもそも社会の強い者の利益の為に存在するものではないか。例えば、国家は国民に対して、教会は信者に対して、親は子供に対して、奴隷所有者は奴隷に対して、ボスは社員に対して、猿の群においてさえも猿のボスは一般の猿に対して、道徳のお陰で利益を得ているのだ。
法王の様な聖職者によると道徳とは神から与えられた自然な感情で、誰にでも等しく当てはまるだという。彼らの教えによると、女性が恥ずかしがらずに胸を露出するのは、不自然で非人間的なのだそうだ。
もし、「道徳」とは自然なものか不自然か、と聞かれれば、私は、「道徳」は自然であると答える。「道徳」とは行動学者が発見した「上の者に服従する本能的な反応」なのである。
「道徳」の表われ方はダーウィンの進化論で説明出来る。弱い者が強い者に殴られた時、「これはあきらめた方がいい」と感じない者(人類)は絶滅する。道徳とは強い者に従うことなのだ。
現代の人間社会では、道徳とは絶対的なものではなく、かなり柔軟なイデオロギーである。「道徳」は支配者によって異なる。ナチの秘密国家警察が誤ってユダヤ人を逃走させてしまった時の「良心の呵責」、或いはアメリカの爆撃機のパイロットが油断のあまりベトナム人・イラク人・セルビア人等を大量に殺せなかった時の「良心の呵責」などがその良い例である。
「良心の呵責」につけこむ教会や従順な国民を欲する社会の支配者の利益に従うのは危険であるし、個人ないしは社会全体の進歩・利益・幸せにも繋がらない。

最悪なのは、つまり非道徳的なのは、道徳について考えないことだ。

こうした「道徳」やメディアの巧みなけしかけに影響され、社会の偏見を見抜けないでいることは無知以外の何物でもなく、「故意の愚鈍」とも言うべきものだ。故意の愚鈍は現代の裕福な民主主義社会の最大の問題である。欧米では、国民は社会の支配者や政治家やマスメディアの企みにまんまと一杯食わされ、寛容の名の下に政党や意見が禁じられ、平和の為という爆撃さえも(例えば:イラク、セルビアetc.)受け入れさせられてしまった。「故意の愚鈍」と化した賎民には、本当の寛容や啓蒙の観念は忘れられている。

サルマン・ ラシディーの“悪魔の詩”が出版された時、イスラム教信者はデモを行って出版禁止を要求した(彼らはラシディーの首も欲しかった)。当時、私は一人で出版禁止反対のデモをし、イスラム信者のデモ隊と衝突し、その暴力を受けた。つまり、彼らは相手の自由を無視したのである。(“悪魔の詩”を日本語に翻訳した五十嵐一(ひとし)は-御存知のとおり-イスラム信者に殺された。) ところでサルマン ・ラシディーは想像力と知識に恵まれた作家であり、彼の本の一読を薦める。ところで当時、メディアはイスラム教信者の信仰心が傷つけられたという記事であふれ、ラシディーの表現の自由に触れた記事はないに等しかった。これらの記者連には啓蒙への責任感というものがなかった。(悪例の一つ:http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/konojune/89/89h6c6.htm
「表現の自由」はどんな時でも侵されるべきではない。どんな酷い意見でも、ユダヤ人の大虐殺に対する疑問や人種差別論でさえ、それ自体「表現の自由」であり、発言する事は許されるべきである。「意見を禁じること」によって問題を解決することはできない。そうすることによりかえって、禁じられた意見への反論の信憑性が失われる。例えば、ドイツでユダヤ人の大虐殺に関し些細な疑問を呈した歴史学者が迫害されると言う事実により、僕自身はかえって虐殺について疑問を抱くようになる。
そういうわけで、つまらない作品を作り出す
アーティストにも作品を出版する権利がある。面白いのは、欧米ではそういうアーティスト達にこそ国からの助成金が舞い込むのに対し、ショッキングな、人に考える機会を与える様な作品は上演禁止や出版禁止の憂き目をみる。(例: 教会の圧力で上演禁止! ―ドイツでは表現の自由と芸術の自由がない!―)
述べてきたとおり、僕は検閲には大反対だ。すべての表現の自由の為に戦う。上にあげた例は勿論、原宿の演奏家の為にも。。。
僕はいわゆる「ポルノ」の検閲にも反対だ。いつも言うことであるが、絵や写真にある性器の映像を消そうとする政治家や検閲官は、性に対しそれほどの嫌悪感を抱くなら、まず自分の性器(本物)を切り取るべきである。そうでなければ彼らの真剣さは信用できない。
ところで人間の裸体は最高の美術品だ。道徳や偏見に縛られない目で見れば、人間の性器そのものは最高に美しい。しかし、チンパンジーの雌のむくんだあそこには不快感を抱く。でもチンパンジーの雄の人間の偏見で曇らせられていない目には、この性器は超セクシーに違いない。

さて、原宿に話を戻そう。

2001年2月21日朝日新聞で次の投書を見た。
石田 知子さん 15歳の中学生からの投書だ。
“私は一年ほど前から、好きなバンドの派手な衣装を作って楽しむ「コスプレ」をしていて、今ではたくさんの友達がいます。親はいろいろ協力してくれ、学校の友達も少しずつだけど理解してくれるようになりました。しかし、電車に乗れば指をさして笑われ、ジロジロと見られます。友達は、コンサートの帰りの電車で「死ね」「お前らみたいのがいるから世の中がだめになるんだ」などと言われ続けました。驚いたことに、こいうことを言うのは、四十代から五十代の大人が多いのです。
私は今まで、大人というのは人を思いやることのできる、心に余裕のある存在だと思っていました。それなのに、ごく一部とはいえ、人に向かって平気で「死ね」と言える大人がいるのです。こんな人たちに自分の子供をきちんと育てられるのでしょうか。
コスプレという「異文化」を理解しようともしない大人に、外国人差別や文化の違いによる差別を非難する資格があるのでしょうか。相手をおもいやれない大人が、いじめやセクハラについて意見する権利があるのでしょうか。
いま一度、自分の行動を振り返ってほしいと思います。”

これから原宿の若者達の”芸術品”を紹介する。普通、こういうメーク、変装等は芸術品とは見られてないけど、素晴らしい、愛を込めた”芸術品”だと思う。


かやちゃん、蚊帳じゃなくて香弥(コスプレ名)


紫燐くんは185センチで(僕と同じ)、写真に収まり難い


Street Performance Group 世狼(ZEROW)
http://www.zerow.net/


60年代のロック


左は僕の日常の姿で、右はキャンディ・ミルキィさんのホリデーのいでたち。
キャンディ・ミルキィさんのひまりホームページ <http://www.netlaputa.ne.jp/~himawari/>
メールアドレス<candy-p@netlaputa.ne.jp>

馬までコスプレ...


オートバイの高いハンドルは実用的ではない(脇下をくすぐる以外はね)、でも格好いい。それも芸術品の一つ。また、入墨や広告ポスターのデザイン、ブティックのショーウィンドー等にも芸術作品と言っていいほど素晴らしいものがあった。まだ写真は撮っていませんが。。。


ホルガー ・H・ハウプト

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