私のヒッピー時代(瘋癲族 ?)

前史:何故我々はアウトサイダーであるヒッピーになったのか。ドイツはナチ帝国の続きであったから。

1965年、14歳で学校を終え、卸し売りの見習いを始めた頃から大人たち即ち親の世代に対して様々な怒りを抱く様になりました。

大人たちは自ら戦後のドイツを復興させた事に誇りをもっていましたが、自分たちのナチの過去と責任を無視し続けました。大勢の元ナチ主義者は相変わらず自由を抑圧する意見を述べ、特に自分の周り、すなわち、家庭や仕事場、学校など自分の権威が保たれている所で、新しく言わば個人のナチ帝国を作りあげました。

私は戦後の生まれですが、ナチ主義者に関する様々な記憶があります。初めてユダヤ人という言葉を聞いた時、両親に「ユダヤ人ってどんな人?」と聞きました。同じ部屋にいた叔父は 「彼らの皮膚でランプの笠を作る様なやからだ。」と応えました。まだ幼児の私はその後、キッチンのランプが恐いと思いました。

一年生の担任だったシモン先生は、やさしい先生でしたが、皆が彼の悪口を言いました。その理由は、彼がナチの人間だったからではなく、ナチによって収容所に入れらたからでした。

その後何回も、ナチに抵抗して刑務所あるいは強制収容所に入れらた人たちに対し背後で「あの奴は、前にもヒトラ−に捕まった。」という言い方を耳にしました。それに含められた意味は、「また刑務所に入れらた方がいい」という事でした。

シモン先生は私達の学校から追放されました。それはまだヴィリー・ブラント首相のRadikalenerlaß(国家がドイツの基本法の原理に背くと判断した人々を公職から追放した法律)制定の15年も前の出来事でした。(1972、ブラント首相は、反社会的な者が公職に就く事を禁止しました。それによって職を追われた人は1万人を越えました。ブラント首相の選挙スローガンは、「民主主議をもっと大胆に推し進めよう」というものでしたが、実際は民主主義を後退させれる嘘付きの政治家でした。)

・・・

60年代、我々若い世代は両親の不自由で不寛容な世界に対して抵抗を感じ始めました。彼らの嫌いな音楽(Elvis,Beatles等)に熱狂し、彼ら好みの短い軍隊髪型に抵抗し、共産主義に傾倒しました。
髪の毛を伸ばすのが一番困難でした。家が貧しいにもかかわらず母は私をほとんど毎週床屋へ行かせました。彼女の目には耳の上2、3センチに刈り上げていない髪型は許されませんでした。(現在はまた似たヘアスタイルが流行っています。)もっと理解のある家庭の子供は髪の毛をもうちょっと伸ばしました。仲間うちでは彼らは格好いい奴でしたが、私の両親のような大人にとって彼らは犯罪者同然の存在でした。
私は長い間両親の圧力で短い髪と大きな耳の滑稽な姿をさらさなければなりませんでしたが、後に見習いになってからは両親に反抗して髪の毛を伸ばしました。

[随時続きを書きます]

ハウプト・ホルガー

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