個人と社会構成

社会は私人を中心に構成されるべきである。

(従来の)国家はピラミッド型の組織で、社会の支配者は頂上、上から2層目は2級の支配者、上から3層目は3級の支配者等など。。。下に行けばいつか、もう支配者と言えない人の層になる。ドイツ語ではそういう中間階級層をラートファラー(Radfahrer)、つまり自転車乗りと言う。自転車に乗る人は上半身を低くして上にへつらい、下へ向けてキックする、つまり、ラートファラーは上にペコペコし、下の者に対して横柄な人の事だ。
ピラミッドの底面は一般大衆、平民に当たる。
より良い社会を実現するコツは、このピラミッド型の階級組織を、だれもが中心にいるような環状の社会組織に変化させる事である。

「我が党」の綱領

人間は、家族、近隣、村、都市、郡、県、州や国に属する。私の価値観によれば、その重要度は左の通りである。社会の基本単位は個人であり、その次は家族、そして地域等など。。。一番遠いところにあるのが、全人類やプラネト・アースや、宇宙。各ユニットはそれ自身で完全であり、ユニットに関してはそのメンバーに決定権がある。
ユニットの領域は、そのユニットの中で利益を受ける人々によって決まる。ユニットに参加するかどうかは、各個人が自分で決める。
各ユニットは独立的存在であることが望ましい。上のユニットの指揮下で機能するようなものであってはならない。「指揮系統」があるとすれば、意志の伝達は下から上へ吸い上げられるべきである。
実際の社会生活の場では「誰にも同じ自由を」という規則のみでは上手くいかない場合もあるに違いない。その場合、追加規則が必要だが、規則の数は極力少なくすべきだ。その規則の文言は明瞭で、誰でも理解できるものであるべきである。しかも、誰もが規則に賛同すべきだ。
そうすれば、メンバー全員が、規則が守られることを監視し、取り締まることができる。
各ユニットの住民のために働く代表者(道路清掃人、保安官、管理人、村都郡県州国の代表者まで)は住民によって選出され、監視され、必要なら解雇される。
各ユニットの住民はそのユニットについての決定権を有する。ユニットの代表者が決定した事柄でも、住民の過半数がそれに反対であれば、その決定は無効である。
今日では通信技術(インターネット、PCや携帯)が急速に発達し、それを使用すれば、住民による直接投票も容易である。
しかし、多数派は少数派に対し、多数派による決定事項によって生じる義務や費用を負わせることは出来ない。

次に例として、私が理想とする社会がどのように機能するかを紹介する。

「指揮系統」は今の社会とは逆で、個人がイニシアティブを取る。例えば、家の前の道路に凸凹ができ新しいアスファルト舗装が必要だと思う人は、他の住民や道路を使う他の人々と相談して道路の修理を行う。道路修理を求める人は舗装分担金を払い、必要ないと思う人は払わない。分譲マンションのようなやり方だ。分譲マンションの各々のオーナーの代わりに政府がフロントドアをペンキ塗りをするような事はない。もしそんなことをしたら、すごく費用がかかる 。ペンキ屋の費用の何倍いや何十倍のお金が係員や政治家とその関係者に行く。残念ながら日本を含む多くの国々の法律とは、自分のマンションの入り口や外壁の色を自由に決められず、他の関係のないマンションの色の合わせなければならない様なものである。

幹線道路などの場合には、個人がまず地域に話をし、そこから上のユニット(郡や県レベル)にその案件を持ち込むべきである。
国の防衛問題もそうだ。敵国を想定し、武器を必要と思う人は、自分の金で武器を調達する。効率的核兵器の入手も可能である。他方、住民が核兵器を必要としない場合、非核武装地帯となることも可能である(冷戦時代、いわゆる「民主国家」西ドイツでは大勢の住民がパーシングミサイル等の核兵器の導入に反対し、自分の地域を非核武装地帯だと宣言した。しかし、米国の傀儡政権の下で無視された)。
確か、国連も米国もある国に核兵器を禁じる権利はない。アメリカ合衆国はこれまで幾度も自分の核兵器によって、核拡散防止条約を承認したリビアやイラクなどの国々を強迫した。アメリカこそ人間と自由の大敵であり、世界の最大の「ならず者国家」である。

人民投票の二つの方法

第一は、ファシズム信奉者のやり方で、多数派が決めた事は絶対的という考え方。多数派が新しい道路の建設を決定すれば、建設に反対した少数派も建設費を払わなければならない。あるいは、建設費を払うのは少数派(例えばお金持ち)と多数派が決めれば、少数派のみが払わなければならない事になる。多数派がユダヤ人には生きる権利がないと決めれば、ユダヤ人は死ななければならない。

第二のやり方。多数派が決めた事は実行される、だが、その費用を負担するのはそれを決定した多数派のみである。また少数派が望む事でも大多数の邪魔にならない場合は、実行される。

例:天皇制を支持する人達は多数派でも少数派でも、自分自身の寄付金で天皇、天皇の家族や親戚、宮殿などをまかなうべきである。発展途上国援助の場合も援助したい人々のみ援助する。米国の起こした戦争に関しても軍事援助したい人々のみが自分の財産と命を投げ打って援助するべき。。。いや、それはいけない。犯罪は止めさせなければならない。

個人を中心とする環状の社会組織

自分のことは自分で決める。− この権利を必要としない人がいるだろうか。

まず、外見から始めよう。
具体的に頭から説明すると:

髪型、ないしは坊主頭、スキンヘッド、それから被り物である帽子、ヘルメットや、スカーフ、イスラムの女性のチャドルなどは一切強制されることなく、自由であるべきだ。
今日 ヨーロッパ(フランス、ドイツなど)では、スカーフやチャドルはイスラムの女性の弾圧の象徴とされ、自由を理由に、 国家はイスラム女性に対し学校や官公の職場などでスカーフやチャドルの着用を禁じた。しかし、こうした禁止によってイスラム女性に西洋の自由の価値観を伝えることができるだろうか。隣に座っているの非イスラム女性が流行のスカーフを被っているのは許されているのに。
もし、何かを禁じるとすれば、イスラム女性に対するイスラム社会の弾圧、すなわちムラと呼ばれるイスラム教の聖職者や父親からの弾圧であろう。
イスラムの父からチャドルを被る強制も受けず、国家からチャドルを被ってはいけないとの強制もないことこそ、理想である。

同じように、ヘルメットを被らなければならないとの強制は要らない。欧米や日本の法律によると、バイクに乗る人はヘルメットを被らなければならない。(南米中西部のボリビア共和国は例外。バイクに乗り大きなヘルメットで顔を隠した暗殺者が多かったので、ヘルメット着用が禁止となった。)
被り物の強制なし、坊主頭の強制なし、また、髪を生えさせたままにしておかねばならないとの強制もあってはならない。(ドイツの反ファシスト運動のメンバーは、坊主頭すなわち「スキンヘッド イコール ファシスト」と考え、「坊主をやっつけろ」をスローガンに、坊主頭を見つけるやいなや、その人を襲った。ファシストと間違えられ、ひどい目に遭った水泳選手もいた。また、私の青年時代であった1960年代には、ドイツの兵役の規則により長髪のヒッピー頭は坊主にされた。しかし、今日のドイツ軍では坊主頭はファシストのイメージを助長するとして禁じられている。)
パーマネント・ウェーブの強制、髪を染める(染めてはいけない)事の強制も要らない。
(髪を染める事は長い間日本の学校で禁じられてきた。だが今では、むしろ雇用主の多くは「お客さまのために」女性社員が当世風の茶髪にすることを望み、半分強制すると言っても過言ではない。)

次は洋服:

誰もが自分で着る服を自分で決める自由を有する。また、洋服を着ずに裸でいる権利もある。公共の場でのヌードも禁ずる必要もない。実際に人間の性器を見たところで何の害もない。見たくない人は見なくてもいい。見たくない他人のヌードを見せられ害を受けたと主張する「犠牲者」がいるとすれば、それはあくまでその「犠牲者」の想像の問題である。

そして履物:

ここでも、履物を選ぶのは足の持ち主自身である。
(ドイツの法律は、裸足で運転するのを禁じるに至った(§ 23 StVO)。だが、私の様に一年中毎朝裸足で運動したり、公園を何周も走ったりする人は裸足で運転するのが一番安全だ。)

頭に戻ろう:

頭の中で考えること、つまり思想は自由である。思想を口に出すも自由であるべきである。思想の取り締まりは要らない。意見の交換は自由であるべきだ。検閲は保護者づらすることと等しく、子供扱いをすることである。検閲は真理探求の妨害である。
皆の意見を聞けば、一部の意見を禁じるより、真実に近づける。皆と言うのは、本当にすべての人という意味である。現在表現の自由を与えられていないナチドイツの修正主義者(Revisionist)も、人種差別主義者も、反ユダヤ主義者もすべて。表現の自由を制限するのは不当である。また、ドイツの大衆扇動禁止法が、場合により施行のされ方が異なるのも不当である。米国の支配政策に都合のよい時には(ドイツなどの)マスメディアは、「セルビア人はみな犯罪者」とのクロアチア人による扇動を歓迎した。同時に、六百万人のユダヤ人の犠牲者の数は高すぎるという歴史学者のいわば喜ばしい研究結果の発表は、大衆扇動上の理由で迫害される。この大衆扇動法の不当な施行のやり方は様々である。

意見を禁じたり、検閲をしたがる人は、その意見の持ち主を子供扱いすることに等しい。検閲を行う人は、他人より多くの権利を欲しているに等しい。つまり、そういう人達は他人と権利を共有したくない。彼らはピラミッド型の社会の頂上にのし上がろうとする人達だが、人間として最低だ。

侮辱

侮辱も意見の表現の一つで、制限されたり、訴訟の対象とされるべきはない。侮辱による告発、すなわち名誉毀損は不要だ。これは侮辱者と侮辱された人の間の問題であり、侮辱を返すか、無視するかで片付けられる。
(私は長年社会のアウトサイダーであり、外見や意見のため、さんざんにののしられた経験が豊富だ。上に述べた意見がさらに新しい侮辱の原因になろうとも、ちっとも不思議と思わない。)

殺すとの脅迫でさえ訴訟の対象とされるべきではない。脅迫者は殺すと脅したことで精神的な鬱憤が晴らされ、実際には行為に及ばずに済むこともある。そうでなくとも、脅迫は犠牲者にとって警告なしに殺されるよりましだ。殺される理由が分かるし、防衛の準備も出来るというものだ。
この極端なフリー・スピーチは現行の法律より良い。近頃は取るに足らない侮辱でさえすぐ高級弁護団の支持を取り付け、名誉毀損の訴訟に持ち込み、刑罰や膨大な賠償金を勝ち取る人もいる。他方、裁判長が法を曲解し、侮辱された、あるいは脅迫にさらされた人自身の責任とした不公平な判決を下し、犠牲者の損害を認めない場合もある。(特に脅迫された者が宗教や社会的権力者を批判した場合など)
批判は大事である。批判と侮辱の区分は曖昧だ。批判された人の多くは 自分が侮辱されたと感じる。特に教会は批判を受けると、すぐ「侮辱だ」と叫んで、ドイツの「神冒涜法§166」に訴える
その反面、無神論者が一括して大量殺人者と呼ばれても、それは侮辱とされず、大衆扇動ともされない。裁判長は 無神論者の訴えを拒絶する。(参照:ドイツ語の記事: http://www.gkpn.de/hohmann.jpg 。キリスト教民主同盟の議員であるホーマン氏は20世紀の大量虐殺のすべては無神論者のせいだと述べた。ヒトラーはローマカトリック教徒であり、スターリンは共産党の信者であったにもかかわらず。。。 無神論者は社会の秩序から離れた存在であり、社会支配者層は無神論者の権利をきちんと認めない。最悪例: ドイツでは教会税がある。政府が信者(!)の給料から徴収して教会に交付する税だが、失業者の場合、無宗教者でも、失業手当から教会税は強制徴収される事があるのだ。日本では同じキリスト教組織が、昭和天皇の神道葬式が政教分離に違反すると訴えてデモを起こした。その費用はドイツの教会税から出ているのではないか?)
サルマン・ラシディーの“悪魔の詩”を日本語に翻訳した五十嵐一(ひとし)はイスラム信者に殺された時、私は自分のドイツ語のホームページでその死を悼み、イスラム信者の侵略的な性向を批判した。その後私は、イスラム信者になったドイツ人から何日も続けて一日十回位「あんたのケツの穴に機関銃をぶっ放してやる。」 との脅迫メールを受け取った。ドメインは彼の大学だったので、その大学に「彼の脅迫メールを止めさせることはできないか」と頼んだが、「フリー・スピーチの侵害だ」と拒否された。しかし、その大学は自ら検閲を行っていた。当時は抑圧的なイスラムはまだ支配者層に可愛がられた存在であった。もし、私が訴訟を起こしても、負けていたに違いない。
日本でも、当時は翻訳者の五十嵐一の暗殺事件はマスコミにほとんど取り上げられなかった。現在北朝鮮による日本人拉致事件などとは対照的だ。この事件も過去30年間は無為無策の扱いを受けてきた。マスコミ報道とはその時々の日和見的政治判断に支配されるものなのである。

家族

個人から家族へ。
個々人が一緒になり、自分達が「我々は家族だ」と思えば、彼らは家族だ。結婚や家族はまったく個人の関心事で、国家はその私事に関わるべきではない。国家は結婚や家族の登録を強いたり、その助成をしたり、邪魔をしたりすべきではない。
女と男はお互いに愛し合えば、一緒に住み、子供をつくりたいと思うかもしれない。それは家族の一般的イメージであろう。だが、誰も、過半数でさえ、「誰が家族で、誰が家族ではない」と決める権利はない。そういう権利はあくまでも本人たち自身のものである。家族というのは家族のメンバー自身の関心事である。同性愛者の家族も、三角関係も、複婚一夫多妻または一妻多夫も可能であるべきだ。
(ドイツの法律では重婚は罪で、最高刑は3年間の懲役(Ehegesetz, §§ 5, 20 und 171)、それはドイツ人に対しての場合である。それと対照的に、ドイツのラインランド・パファルツ州の最高行政裁判所の判決によると、イスラム国家からの亡命者が、母国に多くの妻を残してきた場合、その妻達をドイツに呼び寄せるための援助(航空運賃など)をしなければならない。その後も、妻達に生活費を支払わなければならない。妻の数が多ければ多い程、家族への援助金が増えるという事になる。一般に、亡命者には労働許可が下りないので、長期にわたりドイツの税金で生活し続けることになる。)
ドイツの法律上の離婚も非常に難しい上、不公平でもある。離婚の理由(例えば不倫)には関係なく、経済力の弱い方が強い方から最大で半分の財産を得る。子供がいたり、あるいは自分に収入がない場合、離婚したパートナーはそれに対し、養育費や生活費を支払う。私の従弟は妻の不倫を発見した。彼は妻を許し、結婚生活を継続するつもりだったが、彼女はもう彼に飽きたらしく、離婚を要求した。離婚後、彼女は不倫相手と一緒に暮らし事実上婚姻生活を送っていたのだが、前の夫から生活費を貰い続けるため、敢えて再婚はしなかった。
結婚するということは、そういう危険に陥る可能性があるので、現在ドイツでは大勢の人が法律上の結婚をせず内縁関係を続けている。
結婚や離婚に法律は不要である。人は一緒に生活をしたいと考える時、自分の判断で契約を結ぶべきである。国家、教会、他人は夫婦や家族の関心事に干渉すべきではない。ただ、契約が守られなかった場合、その問題を処理する上級審(決定機関)が必要である。
夫婦が子供をつくった場合、その子供の面倒を見たり、食べ物や衣服などを与えたり、教育するのはあくまで夫婦の義務であり、国家の義務ではない。それは、自分が自動車を買った時、国家がガソリン、油取替えや修理にお金も口も出さないことと同じである。
地球は人口過剰である。子供をつくることは、人口過剰問題を悪化させることである。人口が増やすことは、環境汚染を悪化させるのと等しい。つまり、子供を生むことは自己中心で、非社会的な行為である。
ヨーロッパや日本の政治家とマスメディアは、現在人口は停滞、あるいは減少傾向にあるとし、「将来年金が危ない」、「日本人絶滅」などというパニックを起こしている。だが、子供の数を増やしても年金問題は解決しないばかりか、反対に年金問題を悪化させる。次の世代の人口が多ければ、その世代は前の世代の年寄りだけではなく、自分の時代の多くの失業者や破壊された環境のための負担を強いられる。
それでは, 何故支配者層は人々に子づくりを促がすのだろう。答えは簡単。産業界にとっては、子づくりは労働者づくりと等しい、労働者の供給過多は賃金切り下げにつながり、労働搾取の助けとなる。その上、住まいを探す人の需要過多が家賃や住宅建築費を高め、新たに儲けるチャンスを作ってくれる。
ドイツ政府は、子供のない人々から高い税金を取り、多産の家族に児童手当を支払う。それは犯罪だと思う。

家族の敵

あらゆるイデオロギー、宗教、階層制度は家族の敵である。このテーマについて1982年、フェルディナンド・マウント(Ferdinand Mount)というマーガレット・サッチャーのスピーチ原稿代作者でもあった政治コラムニストがその著書”The Subversive Family”(家族の教会・国家・イデオロギーに対する反抗の歴史)http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0684863855/qid%3D1025224916/sr%3D1-1/ref%3Dsr%5F1%5F1/t/103-5094819-9332655全テキストはオンライン、検索機能付き)で述べている。またこの作品の主要部分である 引用が次のサイトで見られるhttp://users.cyberone.com.au/myers/mount.htmlこの著書の主要概念は次のとおりである。
プラトン、キリスト、マルクス、レーニン 毛沢東、ヒットラー等多くの扇動家のイデオロギー、ならびに諸宗教の家族に関する価値観はその発展段階とともに変化をみせる。

最初の段階では、伝統的家族というもに対して批判と敵意をあらわにし、独自の家族集団(修道院、使徒教団、キブツ、共産主義コミューン等)を形成する。
その後、躊躇しながらも伝統的家族というものを容認する。
その次の段階では自らの家族集団形成を推し進める事を控える。
さらに、教会や国家を形成し、社会的支配を確立した後には、伝統的家族の重要性を認め、自らの教えやイデオロギーにおいて家族に高い地位を与える。
最後に、自らの歴史を偽り、教会や国家の代表者は常に家族の重要性を認めてきたを強調する。最初の使徒達は明らかに 反家族で、家族を侮辱してきたにもかかわらず、新しいドクマによれば家族はそれぞれキリスト教・共産党・ファシスト独自の価値観であると主張している。
勿論、イデオロギーや宗教が社会的支配を確立した後には、家族の受容は自らの利益に貢献する。また、家族を持つ者は独身者と異なり、権力へ順応し、上の者を遵奉し、家族を疎外しない限りいかなる支配的制度にも従う人たちであり、自分の子供達に支配的イデオロギーや宗教の教義を教え込む。
最後の段階では、イデオロギーと宗教による家族の保護は反家族的になりがちだ。例えば、離婚を禁じるのは本来の家族の幸福を破壊する非人間的・反家族的行為だと思う。
権力者は、どうしても個人の自由と幸福の追求に干渉せずにはいれない。正当な理由なしに国家に子供を奪われた家族も少なくない。例えば、幼稚園の保母は女の子が描いた蛇の絵をペニスと勘違いして、その女の子が父親に強姦されたと思い込み、女の子は家族から引き離される結果となった。(そうしたドイツの悲劇的例を集めたサイトhttp://www.skifas.de/

以下に例をあげて説明する。

教会はよくキリスト教の伝統的な家族の価値観(Christian family values)を讃える。だが、聖書を調べるとキリストは妻子を捨てることを教えた。「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、父、母、妻、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の命を受けつぐであろう。」マタイによる福音書19:29。マタイによる福音書8:21,22、ルカによる福音書14:26、14:33、5:11等々は一様に反家族的である。キリストは独身主義を薦めた:マタイによる福音書19:10、11を参照。聖パウロ (新約聖書の書簡の著者)も独身主義を薦め、家族生活を営むことに反対を唱えた:コリント人への第一の手紙7:1−40.
又は、キリストは去勢も薦めた:マタイによる福音書19:12、マタイによる福音書18:8,9;5:28−30。その教えに従って、オリゲネス(西暦185−254、キリスト教を偉大な教父、女性は全て悪魔の娘と教えた)と多くの初期クリスチャンは実際に自分の睾丸を切り落とした。コンスタンティヌス大帝 コンスタンティヌス1世;西暦280?‐337; ローマ皇帝)は キリスト教を公認した、すなわち、キリスト教がもはやオウム真理教の様なあやしげなセクトではなくなった時代、教会は少なくとも教皇に対しては去勢を許さなかった。当時、教皇の座に就く者は馬蹄形の椅子に座り、睾丸をぶら下げなければならなかった。枢機卿達ローマ教皇 の最高顧問で新教皇を互選する人物)は新しい教皇の睾丸を仰ぎ、ラテン語で「Testiculos habet et bene pendentes」すなわち、「睾丸がある。そしてよくぶら下がている。」と宣した。その椅子は現在パリのルーブル博物館に所蔵されている。
もう一つの例:カール・マルクス1818‐83; ドイツの経済学者・社会主義者)の1847年に執筆した「共産党宣言」(Das Kommunistische Manifest)によれば、結婚や家族は資本主義ならびに私有財産の産物である。1884年、フリードリッヒ・エンゲルスは”Der Ursprung der Familie, des Privateigentums und des Staates”(家族、私有財産ならびに国家の起源)という冗長な著書で、マルクスと同じテーゼを広めた。だが、フェルディナンド・マウントは(上記の著書で)、当時マルクスとエンゲルスが基にした人類学的な研究は、現在の人類学的見地から言えば全く的のはずれたものであることを指摘している。
マルクスとエンゲルスは、人間が団体として働き、食べ、寝て、セックスすることこそ最も人間の本性にかない、理想的であるとした。レーニンとロシアの共産党も、初期の段階ではそうした自由行動団体(フリーセックスも含めた)を奨励した。しかしロシアの伝統的家族の価値観には勝てなかったため、後に共産党は、労働者階級の英雄は家族を支持し、生産力を高めているとと宣伝スローガンをたてた。
アドルフ・ヒットラーは、「我が闘争」で家族は利己的とけなしながら、男女関係とは(白)人種の進化という目的に貢献しなければならないと述べた。当時、個人の愛や感情を度外視して「より良い」人間を多産することに勤しむナチ集団もいた。だが、ナチズムが大衆の支持を得た後、ヒットラーは他の 大衆向けの政治家と同様、伝統的な家族の価値観を讃えるベビーキッサー(子供にキスをする人)になった。

次は、「個人と社会構成」の続きhttp://www.hpo.net/users/hhhptdai/kojintoshakai2.htmを読んで下さい。

ハウプト・ホルガー

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