公共

前のページ(http://www.hpo.net/users/hhhptdai/kojintoshakai1.htm)では個人や個人の家族について書いた。ここでは、家族の外の世界である人間社会の構造について考えてみましょう。
公共団体は様々だ、村、町、大都市。公共心(連帯感)は公共体が小さければ小さい程強い。
国民が統治されなければならいのなら、遠い首都から中央集権主義的に統治されるのではなく、地方分権、各地方公共団体の自治権・独立性を認める方法でなされなかればならない。中央政府の場合、政府は大勢の人や集団の様々な利益を十把一絡げに標準化し、最悪の場合は無視するのだ。一方地方自治の場合、自治体の住民の多くの利益を図る可能性が高くなる。
例を挙げると、宜野湾市(ぎのわんし)に位置するアメリカ基地(普天間基地)の滑走路建設問題の場合、滑走路建設を決める権利を有するのはアメリカ政府でも日本政府でもなく、沖縄県の政府でさえない。あくまでも宜野湾市の市民の権利だ。彼らは環境汚染、騒音被害と共に生きられなければならないからだ。勿論、市民はアメリカ軍隊の全てを蹴って追い出す権利もある。また、現在普天間基地の移転先とされている名護市の住民も同様に基地を否定する権利を有する。征服者が市民の権利や願望に少しも配慮しないとしても、道徳的見地から市民の権利は明白である。
社会の統治を地方や集団に委譲すれば、人々の要望は叶えられ、満足度の高い社会になる。

高級住宅街、労働者住宅街、商店街など、独自の共同意識が発生するところには、中央支配より地方自治が適切だ。
工業地域は、住宅街を貫く流通道路を建設したり拡張したりしたければ、住宅街の住民と交渉しなければならない。工業地域の代表者は住民に賠償など納得のいくオファーをしなければ道路の計画を実行できないということだ。現在では、市会議員は隣接地の所有者の意向を考慮することなく直ちに道路建設を決定する。理由は簡単。第一の理由は、議員達は賄賂を貰う(選挙寄付金、重役ポジション、または現金そのもの)。議員の数は少ないので実業家にとっても住民達に賠償金を支払うよりずっと良い商売である。第二の理由は、工事の発注の際にも再び闇金が議員達の懐に流れてくる。第三の理由は、工業の成長は税収の増加をもたらし、浪費できるお金が増え、議員の影響力も増す。
ドイツなどでは多くの場合、たまたまそこに住んでいる住民が望みもしない道路建設の為に土地を譲らされたり、建設分担金を支払わせられたりさえするのだ。こうした案件は当事者によって決められるべきである。

各公共団体は独立的存在であることが望ましい。上のユニット(国、州、県)の指揮下で機能するようなものであってはならない。「指揮系統」があるとすれば、意志の伝達は下から上へ吸い上げられるべきである。

この世には一般社会から離れた公共団体も存在し、この公共団体は意識的に行政制度としての社会に替わるオールターナティヴ(選択肢)であると自覚している私の青年時代60年代)には公衆道徳違反のフリーセックス・ヒッピー・コミューンが盛んであったが、オールターナティヴの生活共同体は様々である。
例:
有名になった南インドの実験型エコヴィレッジ「オーロヴィル」http://www.auroville.org/。「オーロヴィル」に家族で住んでいる松本研司氏のウェブページ:http://www.yo.rim.or.jp/~hiroyo/auroville.htm
ポルトガルにあるオールターナティヴ生活共同体「タメラ」http://www.tamera.org/
既存の敵対関係を無視したユダヤ人とパレスチナ・アラブ人の生活共同体「平和のオアシス村」 http://nswas.org/rubrique71.html (日本語サイト)。
堕落政府から農民を守り、自由と尊厳を求める南米コロンビアの十村の農村協会「RECORRE」http://www.prensarural.org/recorre/ (スペイン語)。
上記のようなカウンターカルチャーだけではなく、保守的な人も仲間と一緒に共同体を造り、一般の社会から離れて生活する人々もいる。米国で人気になった ディード・リストリクテド・コミュニティDeed-Restricted-Communities)はその例の一つ。そういうコミュニティはたいてい高級住宅街で、行動の幅、つまり自由を制限する区域だ。禁じられるものとしては、汚い身なりやポンコツ車や手入れのされない庭や家等などである。禁止区域に住むのも自由な選択の一つ。
ディード・リストリクテド・コミュニティの例の契約の一つ:
http://www.houstonheights.org/deedrestrictiondocument.htm(英語)テント、物置、境になる垣やフェンスなどの多くの禁止条項。
家族でのみ住むことを許されるディード・リストリクテド・コミュニティもある。離婚すれば、追い出される。
ある司祭が若い司祭候補の例外居住許可を求める記事:http://www.northeasttimes.com/2000/1129/northwood.html
寛容や「誰にも同じ自由を」という基本的人権に従い、保守的なディード・リストリクテド・コミュニティを尊重しなければならない。外の人には何の害もない。ジェンダー・フリー・ヌーディスト村も認められるべきだし、性別による修道院も認められるべきである。
米国の黒人を受け入れないというディード・リストリクテド・コミュニティは、差別禁止違反の理由で国から許可されないということである。皮膚の色で差別するナンセンスはさておき、人々は誰と生活するか自分で決める権利を有する。新築住宅地域である限り、そうした差別は問題ない。
私は同じ理由で欧米のアファーマティヴ・アクション(Affirmative Action=積極的差別是正措置)(アファーマティヴ・アクションについては日本語のページhttp://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/affirmative_action.htmlを参照)、つまり黒人、障害者などのマイノリティや女性の優先雇用を雇用者に強いることには反対。雇用者は誰を雇用するか自分で決める権利を有する。企業は個人が所有するところのものである。国は個人の所有物・生活・関心事に手を出すべきではない。
キリスト教の修道院が私のような無神論者をも受け入れなければならないという理由がないのと同じである。
ところが、ドイツの法律によると教会が運営する団体(病院、幼稚園、学校や老人ホームなどであるが、これらは一般の人々からの税金を財源としている)は個人企業とは違なり、被雇用者が教会から脱会した場合は解雇が認めらている。看護婦がこの理由で解雇されたドイツの新聞の記事:http://www.jungewelt.de/2003/05-30/013.php。これらは稀なケースではない。離婚したり、離婚者と結婚したとの理由で解雇されたとのケースも聞いたことがある。教会は社会の中の一番不寛容な存在である。
 勿論、営業者には自分のお店に外国等不審な人物の入店を禁じる権利がある。私は次のページのような在日外国人が日本の営業者に対して起こした騒ぎには反対だ:http://www.debito.org/roguesgallery.html (英語/日本語)私は自分が歓迎されなければ入らない。それだけのことだ。

国家

国家は犯罪を犯すことを当然の権利として独占し、これを実行する。国家は個人の殺人を禁じる一方で、自身では大規模な虐殺の準備し、実行するのである。国家は個人の強盗を禁じる一方で、自身では良心の呵責もなく欲しい物全てを手に入れようとする。
このようなモンスターはない方はマシだ。
だが、レボリューションよりエボリューション、革命より進化が理想である。社会構造が急変すると社会は混乱に陥る。国家を急に廃止するのではなく、国家の影響を段階的に弱め、個人の自由(とそれに伴う責任)を段階的に導入するのが良い。「民主主義」の下でそうした社会に進化させることは不可能ではない。しかし、民主主義社会の支配者にとっては国民が自由になることは望ましくないので、自由化への道を様々な方法で妨げようとするだろう。だが、努力次第でそうした妨害は克服できるであろう。支配者が人々の自由への望みを暴力で抑えようとすれば、抑圧された人々にとってもそれに対し暴力で応える道しかないのだ。
その上、「誰にも同じ自由を」という基本的人権が例えばある一国だけに採り入れられ、世界全体にはそうした規則が広まらない場合、その一国はあくまで国家として認められなければならない。そうでなければ、その国は国家としての権力が不在の不安定な状態となり、他の「ならずもの国家」の餌食になってしまう。
民主制から民主主義を越えた自由な社会への過渡期には、いわゆる「国民の代表者」は国民を抑圧するためではなく、外国からの要求を拒否するために存在しなければならない。
現在の状態では、弱い国の政府は国民の明確な意思を無視し、大国(米国)の要求に応じる
メディア操作にもかかわらず、社会の支配者と異なる意思を示す国民が多数を占めることは珍しいが、国民に多大な負担が及ぶ場合(例:侵略戦争、増税、ヨーロッパ憲法)には、たまに起ることだ。
メディアに操作されていないと思う一般人のために世論操作についての日本語記事のお薦めのリンク:
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/persons/chom91om.html ノーム・チョムスキーの記事「メディア操作:世論操作のめざましい成功」
http://www.rui.jp/message/09/85/33_41c6.html 吉国幹雄:「プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶  ー アメリカ発『世論操作』」
ついでに言うと、人々は、(自分の)政府が国民の利益とは正反対のことを行うことに唖然とする様々な状況から判断できることは、背後から世界を動かす強力な利益団体は、自分達の意のままに出来る人々のみを国の中枢にすえる(北朝鮮のような国を除いて)ということだ。
政治家は人々の財産を外国の為に使う権利はない。勿論、自分や仲間の利益に使う権利もない。もし、外国が援助を必要とするなら、外国はその国に住んでいる人々に直接請わなければならないはずだ。
例えばドイツの場合、ユダヤ人に弁償金(Wiedergutmachung)を支払い続けたい人は自分でお金を寄付すべきである。仮に寄付金が政府による弁償金より少なくても、それは心からのものであり、新たな怒り、すなわち反ユダヤ主義の元凶を引き起こす事もない。さらに、イスラエルに原子兵器のための潜水艦を贈りたい人は、ドイツの政治家とは反対に、自腹を切ってすべきだ。
同様に米国と戦友の間柄(よしみ)になりたい人達は。。。と言いたいところだが、米国のような攻撃戦争を援助することは犯罪行為に他ならない。攻撃戦争をしかけた戦犯は、攻撃された人々に引き渡すべきだ。世界中の人々が戦争挑発者(政治家)を支持するのではなく、そうした政治家を戦争挑発の犠牲者に引き渡せば、世界は平和になる。戦争が始まって、大勢の犠牲者を生み、人々の怒りが頂点に達した時、攻撃した国の国民が戦争の責任者を公衆の面前で死刑し、犠牲になった国民に謝罪すれば、仲直りできる。そうすれば攻撃的であった国家も暴行を受けた者や征服させられた者の怒りから解放され、テロ問題も解決するはずだ。
「誰にも同じ自由を」という基本的人権に従わない、抑圧的な法律を施行する国に愛国心を示し、命を懸けて戦うのは大きな誤りだ。たとえ隣の国に自国の領土が侵犯されても、例えば1990年クウェートがイラク領土にあるルマイラ油田から石油を掘削し(http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/Rres_SF_R1.htmlを参照、 http://www.zmag.org/chomsky/interviews/9103-unjust-war.html英語の記事)、あるいは中国が日本付近の東シナ海でガス田を開発し(http://www2.jp/higashishinakai/)又は韓国が竹島/独島の領有権(http://toron.pepper.jp/jp/take/takelink.html)を主張して、それによって戦争になった場合、一般人は何故戦いの支払いをしなければならないのか。あるいは命を懸けて戦わなけらばならないのか。彼らにとって油田や島が隣国に奪われようと関係ない。彼らは支配者層から油田等の分配にあずかるわけではない。それどころか支配者層の代表者である政府は彼らが長い間苦労して蓄えた財産を奪おうとする。
あなたの土地、あなたの家はあなたの物ではない。あなたは所有権はない。あなたが資産税を払ってはじめて、国家は土地や家を持つことを許す。相続税を払ってはじめて国家は財産を受け継ぐことを許す。それだけのことだ。それは所有とは言えない。あなたの財産は単に国から借りた物にすぎない。国に家賃や賃貸借料を払わないと国は家や土地を持つことを許さない。
国への税金の支払い不能者(失業者、破産者)は、家を失ったりして、自殺に追い込まれることもある。この場合、命を懸けて戦うべきだ。どうせ死ぬのなら、支配者を巻き添えに自爆したら どうか。それはテロではなく自己防衛だ。長い間受け続けた抑圧や屈辱に対しての仕返しに他ならない。また、そうすることにより、生き残った人々は恩恵をうけることになる。
従来の「国家」の攻撃的・抑圧的な機関とは違って、「誰にも同じ自由を」に基づいた自由な社会に必要なのは防御的な機関のみだ。「誰にも同じ自由」が侵される場合に、防御策を講じる機関である。それ以上は有害無益だ。

ハウプト・ホルガー

ホームページに戻る