教会は最大の犯罪組織
−歴史的概観ー

キリスト教教会が史上最大の犯罪組織となり、何千万人もの人々を拷問したり殺したりしたのは不思議ではありません。キリスト教の源であり、今もなお、絶対的真実として信者に信じられている聖書には、こうした行為は神のみ心にかなったものと書いてあります。聖戦、十字軍遠征、異教徒の大虐殺、魔女の焼き殺し、拷問、他の民族の奴隷化や絶滅等はすべて、そもそも聖書に起源をもつものでした。(参照 http://www.hpo.net/users/hhhptdai/kami.htm)。そして虐殺を行う時、キリスト教指導者達は聖書に書かれているそうした行為を民衆に示しました。
四世紀の聖アンブロシウス(カトリックの四大教父の一人)はアリアン教という異教を信じていたゴート人を殺してほしかった時、ゴート人は旧約聖書のゴグ民族(ユダヤ人のライバル)と同じく神の目障りであると主張しました。
聖アウグスチノもそうでした。旧約聖書を使ってマニ教の信者殺しと礼拝堂の破壊と求めました。
マルチン・ルターも聖書を引用しながら、プロテスタント信者達にユダヤ人の虐殺やシナゴーグの放火へと扇動しました。農民の反乱の時も反乱者を鎮圧する為に聖書を利用しました。
第一世界大戦の時、ドイツの司教達は旧約聖書中にある様な好戦的気分に陥り、ドイツ兵の武器に十字を切って、神の加護を祈りました。ドイツの枢機卿ファウルハーバーは、ドイツのフランス出兵は反神的国家主議(フランス)への永遠の道徳律(ドイツは当時まだ帝国で、全体として遅れた国でした)の勝利だと述べました。プロテスタント司教もドイツ側が戦争に勝ちそうな時には、神に感謝しました。
ワイマール共和国の破壊に関してもカトリック教会とりわけ法王に責任があります。1933年3月23日、法王の命令でドイツのカトリック系の政党である中央党(=Zentrum、1870ー1933)はヒトラーの権能付与法に賛成し、7月5日には中央党とカトリック系バイエルン州民党を解散させました。その結果、ヒトラーに対抗する政治組織はなくなりました。
カトリック教こそ誰よりもヒトラーの権力掌握を助長しました。なぜなら、ワイマールの民主主義では、政教条約を成立されることは出来ず、無神論の共産党やユダヤ人の迫害も不可能でした。
ナチの後任となったドイツ連邦共和国では今なお、ヒトラーとバチカンの間の取り決めである政教条約に基づき、教会は学校に入り込んで自らの宗教教育を実行し、国は教会税を徴収し、神の冒涜が禁じられ、宗教批判者は迫害を受けるといる現実があります。
当時教会がヒトラーと手を組んだことはうまい手だったと言えるでしょう。でも、教会の最も卑劣たるところは、以前はヒトラーを敬謙なカトリック教信者と崇めたのに対し、現在では「我々教会および法王は最初から無神論者のヒトラーに大反対してきた」とうそぶいていることです。
最も早くナチドイツを認知した(外交関係を回復した)法王は最初の抵抗者に変身しました。
実際は戦後も、カトリック教会はナチの味方でした。ヴァチカンはナチの犯罪者が南米に逃げたり、彼らがユダヤ人やドイツ国民から奪った財産をヴァチカン銀行経由で輸出することを助けました。
ミュンヒ(Muench)司教および法王ピウス12世も自らニュルンベルク裁判でナチの戦争犯罪者に対し寛容であることを望みました。
それから冷戦時代、ソ連との首脳会議や平和的共存に誰よりも反対したのはカトリック教や法王でした。彼らは「神の食卓に座ることを望むなら、神の敵の卓には座れないとすでに当時の使徒が教えた」との聖書からの引用句で、平和を望む政治家を叱り飛ばしました。

ベトナム戦争の時、アメリカ合衆国の司教達はこの戦争は十字軍遠征だと言いました。カトリック司教は北ベトナムの原子爆弾攻撃で南ベトナムのカトリック教会の防衛を望みました。また、プロテスタントの牧師キュンネト(Künneth)も、原子爆弾は隣人愛の為に使えると主張しました。それはあの広島・長崎原爆投下の十三年後の事でした。
第二次大戦中、アメリカ合衆国のプロテスタントやカトリック教会の司教達も日本への原爆投下のために尽力した。1945年8月5日、パイロットが自分の母親の名前を命名したB29爆撃機「エノラゲイ」がティニアン島から離陸する直前、牧師が、「あなたを愛する者の祈りを聞き届けてくれる全能の神よ、お願いです、あなたの天の高さに向け、我々の敵と戦う乗組員を守って下さい。。。これからも我々はあなたを信頼しながらこの世の道を歩みます。。。(全テキスト: H. Gollwitzer "Die Christen und die Atomwaffen" 1957からの引用)」と祈りました。キリスト教の神の助けにより7万人が広島で翌朝8時半即死しました。その後5年間に20万人の命が失われました。勿論、神様に感謝しました。彼ら、あのアメリカのクリスチャン達が。
冷戦時代、両教会は水素爆弾の開発や配置をも支持しました。
1959年、ローマでイエズス会士のグンドラハ(G. Gundlach: Die Lehre Pius Xll zum atomaren Krieg, 1959) が法王ピウス12世の原爆戦争についての意見をまとめ、出版された書籍は「原爆戦争そのものは不道徳的ではありません。。。。どうせこの世は永遠には続きません。。。我々人間は世の終わりには責任はない。。。神の摂理でそういう結果に導かれてしまいました。」等々カトリック教の悪徳とも言うべき内容です。

私は十歳の子供の時既に大人になったらキリスト教の犯罪歴を書こうと思いました。実際は書きませんでしたが、ドイツの作家カールハインツ・デシュナー(Karlheinz Deschner)は数巻に及び、キリスト教の犯罪の歴史を記しました。キリスト教の犯罪を克明に記録した彼の著書は大変優れたものです。普通の学者や政治家、ジャーナリスト達は、キリスト教の犯罪をこの様に明確に暴く事はしません。彼らは皆、教会の影響力を怖がり、教会にへつらうのが常です。
カールハインツ・デシュナー全集を基にし、他のキリスト教批判書をも参考に、駆け足で二千年のキリスト教の犯罪歴を見てみましょう。

キリスト教の犯罪歴史の概略

古代

キリスト教信者は、自分達の教会こそ最大の犯罪者なのに、ローマ時代のキリスト教殉教者の役割をこれまでずっと強調してきました。しかし、実際はキリスト教の為に死んだ人の数は極めて少数でした。カールハインツ・デシュナーは色んな歴史の研究者 (教会の研究者を含めて)の論文を調べた結果、ローマ時代のキリスト教信者を襲ったという「十回の迫害波」は伝説、つまり作り話しでしかなかった事が判明しました。キリスト教の偉大な人物オリゲネス(254年死亡)はキリスト教の殉教者の数は10指に満たないと述べました。
ネロ(54ー68)のキリスト教大虐殺も実際はただの放火者の死刑でした。当時の歴史学者、スエトン(Sueton)とタキトゥス(Tacitus)は、反ネロであったにもかかわらず、キリスト教の放火者の裁判はネロの善の行為だと書き残しました。ネロは国民から愛され、焼失したローマの一地区の再建に私財をつぎ込んだと言われています。キリスト教の宣伝に描かれている様な悪魔の人物ではなかった様です。

殉教者の多くは狂信者で、ローマの神々の神殿、祭壇や彫刻等を糞尿で汚すなどの無礼な行為や冒涜を行っていました。十六世紀末期、日本人はキリスト教信者に対し、ローマ人と同じ経験をしました。九州では、キリスト教の熱狂信者が、「偶象破壊」として仏教の崇拝物や経典を壊したり、仏塔を解体して薪にし、バテレン(伴天連、キリスト教宣教師)の風呂の燃料にしました。当時、キリスト教に改宗した日本人も仏像に排便した事をバテレンが書き残しました。1988年2月10日、ドイツの日本歴史研究者パウリ博士(Dr.Ulrich Pauly)はその頃の出来事をドイツ文化会館での講演「鎖国」(原稿出版:Ulrich Pauly “Sakoku” Zu den Hintergruenden von Japans Weg in die nationale Abschliessung unter Tokugawa; OAG aktuell Nr.36)で明らかにしています。
そうした熱狂的殉教者は現在はカトリック教の聖人として、天で神に仕えています。彼らに病気が治る様に祈れば、その願いは優先的に神の耳に伝えてくれるはずです。
いずれにせよ、古代ローマではキリスト教信者の迫害はありませんでした。迫害されたのは、狂信者、すなわち犯罪者でした。
古代ローマ時代の大虐殺は、キリスト教最初の皇帝であるコンスタンチヌス大帝から始まりました。彼自身こそ殺人犯でした。この冷酷な人物は自分の息子ののどを切り、妻を絞め殺し、舅や義兄も殺しました、同時に彼は宮殿に、偽善的聖職者を扶養し、信条の異なる人々の虐殺をそそのかしました。(The complete works of Percy Bysshe Shelley, 1965)
実はコンスタンチヌス大帝在位中の325年、小アジアのニカイア(英語ではニケーア)に最初の全キリスト教会議が行われました。ニカイア宗教会議ではカトリックのアタナシウス派とアリウス派は二ヶ月以上もイエス・キリストの本質について論じられました。イエスは神と同じ本質か、或いは神と似ている、つまり神に最も近い、でもちょっと違う本質か、それが問題でした。homousiosかhomoiusiosか?何と無意味な問題でしょう。とうとうコンスタンチヌスは堪忍袋の緒を切らし、カトリックのアタナシウス派の三位一体説を正統と決めました。まもなくアタナシウス派は二ヶ月以上議論した相手であるアリウス派司教や聖職者、および信者を迫害し始めました。カトリックの大教父、聖アタナシウス自身は敵のアリウス派の支持者を殺す様に人々をそそのかしました。コンスタンチヌスの帝国ではアリウス派の著作を所有しているだけでも死刑を宣告されました。

コンスタンチヌス大帝に始またキリスト教ローマ帝国以後、それまでの汎神論の寺院や神殿は破壊されました。ギリシャの神殿が遺跡になったのは、時の流れの所為ではなくその多くがキリスト教の狂信者の所為です。
彼らは古代の知識の集大成であるアレクサンドリアの図書館も破壊しました。アレクサンドリアの大司教聖キリル(Kyrill)の命令によりキリスト教の狂信者はアレクサンドリアの有名な女性哲学者ヒパチア(Hypathia)を誘拐して教会の中へ引き摺り込み、服を脱がせ、ガラスの破片で彼女の体を切り殺しました。
394年はギリシャの最後のオリンピア競技会が行われた年でした。その後、オリンピア競技会は異教の行事として禁じられました。アテネの大学の存在が許されたのは529年まででした。だんだん暗い時代に入っていきました。


宗教裁判・異端審問(Inquisition)

ヨーロッパの異教的諸民族をキリスト教の支配下に置こうとしたカール大帝の時代にすでに後の「Inquisition」(異端審問)の様な宗教裁判がありました。1184年のベローナ(Verona)の教会会議で司教達は異教徒の迫害、特に南フランスのカタルシスの異教徒迫害を意図し、組織的な迫害を体系化しました。新しく組織された異端審問は、ドイツの雑誌Spiegel(6/1/98)によるとナチの秘密国家警察ゲシュタポやKGBやスタージ等の先駆組織です。同誌によると18世紀まで少なくとも百万人の命が奪われましたが、焼き殺された犠牲者数は千万人にのぼると推測する歴史学者もいます。さらに、死を宣告された人々の十倍もの人々が長期の牢獄刑や烙印(らくいん=焼き印)刑や鞭打ちの刑に処されました。身体部分 (舌、耳、腕、足等)を切断された人もいました。また、労苦の聖地詣の旅に処された人もいました。
例えば、現代の生物解剖学の創立者ベサリウス・アンドレアス(Andreas Vesalius)は、異端審問の法律に基づいた拷問を受けた後で、当時フィリップ2世時代のマドリッド市街中を引き回されれ、扇動された賎民の怒りの犠牲となりました。その後、彼は極端に衰弱した体にもかかわらず生物体解剖研究のゆえ異端裁判にかけられ、その判決により、エルサレムへの聖地巡礼の旅を余儀なくされました。そしてその巡礼の旅の途中、1564年ギリシャのサキントス島(Zakynthos)で亡くなりました。現在、百科事典で彼がエルサレムの聖地巡礼の旅で死亡したとの記載を見れば、この学者はなんと敬謙なキリスチャンだろうと思うに違いありません。
ベサリウスの命を奪った同じ犯人であるカトリック教会は現在も、解剖学者ハーゲン博士(Prof.Dr.med.Gunther von Hagen)のプラスティネーション<http://www.koerperwelten.com或いは日本語での説明http://202.230.170.10>で保存された人体の展覧会に大反対し、これを禁止しようとしています。まるで中世に戻った様です。勿論、現在では教会が平気で自然科学者等を焼き殺すことはできないでしょう。しかし、一般の人々が、ハーゲン博士の展覧会によって人間体の機能が明らかにされ、そこに永遠の魂を見つけることができなければ、教会は、人々の魂を救うという教会の役割を果たせなくなってしまうことを恐れるのです。知識は人間の自律を促すものです。それゆえ、悪魔が聖水を嫌う様に、教会は知識を嫌うのです。
異端審問の手にかかると絶望的でした。容疑者は長年の拷問と牢獄での自責を強制されます。白状させれた人の財産はすべて没収され、大部分は教会所有となって教会の富を増やし、異端者の家族は、焼殺を免れた場合、ホームレス同然の生活を余儀なくされました。異端裁判官は特に富める者を迫害しました。人の財産を狙い、すでに他界している遠い祖先に異教徒の判決を下した事もありました。

1209年から異端審問は南フランスのカタルシスの異教者への十字軍遠征を始めました。彼らは、次の二十年間で完全に撲滅されました。
十字軍が南フランスの町ベジェールの城壁内に入ると、市民は皆、異端者やカトリック教信者も一緒に、堡塁で固められた大聖堂に逃げました。大聖堂の門の前で十字軍の指揮者の一人が大司教のシトー(Citeaoux)に、カトリック教信者と異端者をどう区別すればいいだろう、と聞いた時、シトー大司教は、「皆殺してやれ、神が自分で正しい信者を選び取るだろう」と答えたとの記録が残っています。
(OttoRahn ”Kreuzzug gegen den Gral”,156ページ)

十字軍遠征

1096年から1291年まで、法王の推奨によりパレスティナの「聖地」への十字軍遠征が七回にわたり行われました。この法王達のパレスティナの「聖地」支配欲により、2千2百万人が犠牲者になったと推測されています(Hans Wollschläger "Die bewaffneten Wallfahrten nach Jerusalem")
1099年イェルサレムの征服後、この敬謙な十字軍の騎士達は血に酔って女性や子供を含むユダヤ人とアラブ人の市民すべてを、剣で刺し殺しました。約七万人の市民が犠牲になりました。目撃者の記録によると、虐殺の後、血まみれになった騎士達は、幸せの涙を流しながら彼らの救世主イエス・キリストの墓参りをし、神に感謝しました。("Die Kreuzzüge in Augenzeugenberichten", dtv-Taschenbuch, 1971, 101).
とにかく、自称「聖戦」に加わった戦士は評判通りの立派な人ではなく、低俗な殺人犯でした。
アメリカの宣教者ビリー・グラハム、日本の東京ドームにての集会の際、日本のキリスト教信者に対し「十字軍の騎士を見習い、日本の社会をキリスト教社会に変身せよ」と訴えました。幸運にも、日本のキリスト教信者は、彼の教えに従って十字軍の騎士の様な犯罪者になる様なことはありませんでした。

ユダヤ人迫害と虐殺

古代ローマの初期キリスト教信者は反ユダヤ的でした。ユダヤ教はローマ帝国内でのライバル伝道宗教で、同時にユダヤ人はローマのイェルサレム植民地の反乱問題ゆえにローマ人から嫌われていました。キリスト教信者達はローマ人に対し熱心に「私達もユダヤ人が嫌いだ」といってローマ人に取り入りましたが、キリスト教は実際ユダヤ教とよく似ていました。旧約聖書はユダヤ教から盗んだもので、キリスト教はユダヤ教の十戒も自分の物にしました。例えば、ユダヤ教の「わたしはあなたの神、主である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならい」という不寛容な教えをも自分のものにし、そしてそれを逆にイエスを崇拝しないユダヤ人に向けました。キリスト教のマタイ伝によれば七つの願いであり、ルカ伝によれば五つの願いの祈祷である「主の祈り(the Lord’s Prayer)」もユダヤの18の願いのシェモネエスレ(shemone esre)という祈祷に由来しています。昔のキリスト教信者はユダヤ人と同じく毎日三回この祈りを唱えました。でも、キリスト教信者に言わせればその祈りは「ユダヤ人の偽善者とは異なって」いたということです。また、「ユダヤ人の偽善者と違って」土曜日ではなく日曜日を休日にしました。
キリスト教の祭日、復活祭や聖霊降臨日等もユダヤの祭日に由来します。ユダヤの天と地に群がる天使の軍隊も、そのままにキリスト教の天使となり、キリスト教信者と一緒にキリスト教の伝道の為に戦うようになりました。実は、これらの天使は多神教時代の名残です。
ユダヤ教の「イスラエル民族は神から選ばれた民族である」という説も、そのままキリスト教化しました。しかし、神が二つの選民をもつことは不可能ですから、それは両者の葛藤やキリスト教の反ユダヤ主義を生みました。キリスト教の教えでは、ユダヤ人はキリストという救い主を信じないため神に離反し、それゆえ紀元前のユダヤ人はすごくいい人でしたが、紀元後のユダヤ人は悪魔その者です。現在もなおキリスト教教会と大勢の信者がこの単純な考え方を絶対真実だと考えています。
初期キリスト教の聖人から現在の原理主義者まで、「ユダヤ人はキリストを殺し、異教のローマ兵士が十字架の下でキリストを受け入れたにもかかわらず、ユダヤ人はキリストを嘲り、ユダヤ人は昔キリストを暗殺したように、今もキリスト教の信者を殺そうとしている」と説教します。
もうコンスタンチヌス大帝の息子は、ユダヤ人男性とキリスト教女性の結婚に死刑を宣告しました。さらに、404年以降ユダヤ人が兵士や公務員になることも禁じら、この禁令は啓蒙時代まで続きました。また、20世紀のヒトラーのドイツ、ファシストのイタリア、カトリックの聖職ファシストのクロアチアやスペインでは再びこの禁令が法律化されました。

多神教徒の迫害と虐殺

古代地中海地域の多神教徒と同様、 中世に至るまでキリスト教化されなかったゲルマン民族とスラブ民族は容赦なく侵略と虐殺にさらされてきました。支配された地域の人々には洗礼か死刑の選択しか残されていませんでした。
クロードウィヒ一世(466ー511)はさまざまな戦いで自分のフランケン王国を広げ、カトリック教を国教にしました。八世紀と九世紀初めのカール大帝の時代にはもっと大規模なキリスト教の戦いが行われ、多神教の民族が殺されました。最後まで多神教徒であったゲルマン民族のザクセン人とカール大帝は772年から804年まで戦い続けました。かろうじて支配出来たものの、大勢のザクセン人がキリスト教より死を選んだこともあり、人口の多半数はカール大帝のザクセン人の大虐殺で失われました。
その後ヨーロッパでは300年間も多神教徒に対する残酷な粛清運動が続けられました。
ザクセン地方の人口は回復し、キリスト教徒となったザクセンの侯爵は1147年、皮肉にもいまだに多神教であったスラブのヴェンド族への十字軍遠征を行ない、再び大虐殺を招く結果となってしまいました。
もともと強制的にキリスト教徒にさせられたヨーロッパ人が新大陸を発見した十六世紀には、新大陸の多神教徒を虐殺し、強制的にキリスト教化していきました。

大勢の宣教者が政府軍の力を借り、多神教の寺や偶像を破壊しました。有名なのは、724年、聖ボニファチウスが(キリスト教の大犯罪者の多くは聖人に格上げされる)ゲルマン民族神ドナルの神木である柏を切り倒しました。「見よ、ドナルは自分の柏さえ守れない」と嘲笑しました。しかし、その時ボニファチウス自身を守ったのははキリスト教の神ではありませんでした。政府軍が背景にいたおかげで彼は暴力の罪でゲルマン人から殺されなくですんだのです。
キリスト教の神も自分の教会を守ることができません。戦争中、大勢の教会が爆撃で失なわれました。でもバチカンはまだ爆破されませんでした。いつか誰かがバチカンの爆破に成功すれば、カトリック信者も神が役に立たない存在であることを自覚するかもしれません。 多神教徒の迫害と虐殺についてのもっと詳しい情報については
Karlheinz DeschnerKriminalgeschichte des Christentums 4(S.457 ff), 5(S.46 ff, 146 ff, 305 ff, 350 ff, 450 ff, 563 ff) 6(u.a. S.457 ff)を参照.

アメリカの征服

コロンブスの発見の50年後すでに、カトリック教徒のスペイン人は百万人のインディオ達を殺害したり、拷問や強制労働で虐待したり、レープ等で梅毒や他の伝染病をうつして死に至らしめました。

発見から150年後にはアメリカ全体で1億人先住民が死に絶え、ドイツのSuedwestpresse (1992・5・2)によるとそれは征服地域の人口の90%以上に当るとのことです。アメリカの征服とは、史上最大の人種抹殺でした。 大勢の民族と民族文化が永遠に滅ぼされました。それに比べ、ヒトラーは何と腑甲斐ない職人だったことでしょう。

キリスト教徒のインディオ殺しは残酷で、例えばインディオを13人ずづ絞首台にかけ下からは小さい火を燃やし、絞め殺すと同時に焼き殺したのです。何故13人ずつかと言うと、救い主のイエスキリストと12使徒の名誉のためでした。また、インディオの子供の頭を岩や木に投げつけ、生きたまま犬の餌にしました。こういた「立派な」行為を熱心に書き留め、その記録をスペイン宮廷に送りました。当時、後に司教となるラスカサス僧(LasCasas)を除き、司祭等のカトリック聖職者は特にインディオという悪魔の子孫を絶滅させたかったのです。現在カトリク教会は「当時人々はやり過ぎた。残念ながら教会はインディオ達を守れなかった」と事実を捻じ曲げています。そして教会は当時カトリックの聖職者から一線を画していたラスカサス司教のインディオスに対しての同情を引用するのです。しかし、ラスカサス司教は真にヒューマニストだったのでしょうか。彼は衰弱したインディオ達が鞭と強制労働で数多く死ぬのを見た時、どんな人道的な解決法を見出したでしょうか。そうです。このラスカサス司教、残酷な時代にありながらキリスト教の愛を満たしたインディオの救い主であったとしてカトリックの広告塔として利用されているこの人物こそ、アフリカの黒人を奴隷として働かせればインディオが救われると考え、新しい悲劇となるところの奴隷栽培を創始した、その張本人なのです。しかし、インディオ達もそれによって救われることはなく、殺戮され続けました。

ハツアイ(Hatuay) と言うインディオ族長は、火あぶりになる前に宣教師から「洗礼を受ければ天国に行けます。洗礼をしますか。」と聞かれた時 、天国にはキリスト教信者がいるのかと質問しました。「勿論」と宣教師が答えると、「じゃ、結構です。そんな残酷な人と一緒になりたくない。仲間のいる地獄の方がいい。」と断りました。(ドイツ新聞taz,1987・2・21からの引用)
ハツアイ族長の様な反応から、当時のクリスチャンはインディオ達が無知の悪魔族だと確信しました。今もなお、クリスチャンは自分達は他人より偉いと思い込んだまま、この世を移動し、宣教活動にあったているのです。

法王犯行現場の訪問

1972年125日、 法王ジョン・ポール二世がハイティに到着した際、彼はひざまずいて「神に感謝。このアメリカ大陸の土を踏むことを許してくれたまえ。アメリカ発見の後、初めて到来して宣教師達はここから福音を伝えました。」と言明しました。
しかし、ラスカサスの記録によると「ここから射殺や絞め殺しが始まった。」
ジョン・ポール二世 :「我々は宣教師の目的の成就を目にし、胸は感嘆と感謝でいっぱい。」
ラスカサスの記録: 「クリスチャン達はインディオ族の村を襲撃。子供から年寄りまで、妊婦や赤ん坊を抱いた母親をもみんな、体を切り裂き、切り刻み、まるで羊の群の畜殺の様であった。」
ジョン・ポール二世:「我々の救い主、イエス・キリストを告知し、原住民の威厳を守り、彼らの不可侵の権利のためにの戦い。神の国をあなた方の祖先に与えるため。」
ラスカサスの記録:「彼らは賭をした、一発でインディオの頭を真二つにできるのは誰か、はらわたを抉り出すこのができるのは誰か...」
ジョン・ポール二世:「この親愛なる民族は当時からイエスキリストを信じています。」
ラスカサスの記録:「彼らは生まれたばかりの赤ん坊の足をつかんで母の乳房から引き離し、その頭を岩に投げつけた。」
聖書の詩篇. 137:9.:「あなたの嬰児を取って岩に投げ打つ者は幸いです!
ジョン・ポール二世:「私をここへ導いた神に感謝。」
ラスカサスの記録:「彼らは、嘲りながらインディオの子供を通りに引きずり出し、水中に投げ入れ溺れさた。」
ジョン・ポール二世:「ここに、アメリカ大陸の神の栄誉と名誉のための恩寵(おんちょう)の時代が始まりました。」
ラスカサスの記録:「子供と母親を同時に刺し殺した。」
ジョン・ポール二世:「ここに最初の十字架が立てられ、最初のミサが行なわれ、最初の聖母マリアの祈りが執り行われた。」
ラスカサスの記録:「幅の広い絞首台が立てられ、インディオ達が13人ずつちょうど足で土すれすれに触れる様絞首台に吊り下げられ、救い主のイエスキリストと12使徒の名誉のため、生きたまま焼き殺した。」
ジョン・ポール二世:「教会の恩寵と使命は福音を広めること。」
ラスカサスの記録:「或る時、300人の高貴なインディオ達に安全を約束した上で、藁の家に案内した後、その家に火を付け全員焼き殺しにした。」
高貴なインディオは高貴なキリスト教徒の為に炎と化したのであった。
ところで、この虐殺もスペイン人の独創ではなかったのです。すでに聖書に手本がありました。列王紀下10.18ー27には、神のみ心にかなったエヒウは「今バアルのすべての預言者、すべての礼拝者、すべての祭司を私のもとに召しなさい。。。。私は多いなる犠牲をバアルに捧げようとしている。」「しかしエヒウはバアルの礼拝者達を滅ぼすための偽ってこうしたのである。」
ジョン・ポール二世:「宣教師達は、特に弱い者、助けのない者を助けたかったので、先住民達に惹き付けられた。。。。こうした状況の影響で、フランスィスコ・デ・ヴィトリア(Fransisco de Vitoria、1483?から1546、神学教授)は最初の国際法を展開した。」
ラスカサスの記録:「インディオ達はこういう残酷な人から山に逃れ、険しい岩山を登り身を隠した。あの怪物の様な人間達は猟犬にインディオの探し出し食らいつく訓練をさせた。その犬は主の祈りを言い終わるか言い終わらない速さで、インディオを猪の様に食い殺し、大きい犬はインディオを食い尽くした。」
ジョン・ポール二世:「信仰の種を蒔いた。...たいへんな犠牲を忍んだ。殉教にまで至った。宣教者の労のねぎらいたい。」
ラスカサスの記録:「インディオが頭に血が上ってクリスチャンを一人殺した時、彼らは法を作った。それによって、クリスチャン一人が殺された時、常に100人のインディオ達を殺した。」
ジョン・ポール二世:「この島では、教会は公平と人権の為尽力した最初の機関でした。」
ジョン・ポール二世:「教会の宣教史上、インディオの伝道より素晴らしいものはない。」
皮肉にも、ジョン・ポール二世の視聴者の中にもまたハイティ島全体の中にもインディオ達はもういないのです。ジョン・ポール二世の視聴者は白人と、白人の鞭でキリスト教化された黒人と混血人だけでした。
勿論、自らがインディオ達を殺した法王はいません。法王が殺した相手は他の法王で、インディオを一人も殺したことはありませんでした。彼らはインディオの絶滅には無縁。100%無縁。ヒトラー同様無縁。ヒトラーも自らは一人のユダヤ人もガス室に入れませんでした。
「インディオが人間かどうか」という議論は教会によって当時から啓蒙時代まで続けられたのです。
Karlheinz DeschnerEin Papst reist zum Tatort参照)

聖母マリヤと共に虐殺 [随時続きを書きます]


ホルガー ・H・ハウプト

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