日本の警告看板や禁止立札はゴミより目障りだ
故郷のドイツでも標識や禁止立札が増えているが、日本の現状からはかなり遠い。日本のテレビ局はよく外国の美しい風景を紹介する。私はそれを見るたびに思うのだが、それが日本だったら、この美しい風景は醜い立札によってどんなに台なしにされてしまっていることだろうと。
上:ドイツの故郷の沼沢地に立つ見苦しくない立札「生命危険!立入禁止!」
次に紹介したいのは、近所の公園(東京)を散歩したときに目にするモノ。
公園へたどり着く前すでに僅かな緑がもうこんな札で台無しにされている。犬の糞より酷い。しかも、大多数の飼主達は札とは関係なく愛犬の糞を持ち帰る。
交通標識だけでは足りないのだろうか。標識が分らない人のため、それとも字が読める人のためにわざわざ大きな字でも書いてあるのか。ところで、この道路は交通量が少ないので駐車しても問題はないはずだ。
数歩歩いたところに、又フンの看板。
公園の前の広い土地は緑ではなくアスファルト舗装だ。(役人の決めた)駐輪禁止場所に止められた自転車を役所のトラックで運ばれ、ここに置かれる。
以前、私の自転車もこうした自転車収集所へもっていかれたことがある。その時はもっと遠くの場所だった。(どうして広い道路がバリケードによって狭くさせられているのでしょうか? を参照)自転車を取り戻すまで大変な手間がかかり、罰金をとられた上、時間もかかった。そのせいで、幼稚園の娘の迎えに遅れ、彼女はずっと泣き止まなかった。自転車を駐車した場所はその後上のようなバリケートで囲まれた。このバリケードで囲まれた空間は誰によっても使用されないデットスペースになった。
「ルールを守り、きれいな街に」と書かれたバリケードこそ、醜く、しかも市民に迷惑をかけているのではないか。
他人に迷惑をかけるなと我々に言い張る役人とはいったい何者か。彼らこそ最大のpain in the ass 《米俗》不快にうんざりさせる奴であり、痔のような望ましくない存在ではないか。
下: 少ないスペースは意味のないバリケードより、買物のため駐車しなければならない自転車のためにあるべきではないか。こんな光景を目にすると泣きたくなる。
日本のテレビは、コペンハーゲン、アムステルダム、パリなどでは環境に優しい自転車が多く使われていることを模範的と紹介するが、日本の様に至る所で自転車の駐車が禁止され、有料の場所にしか駐車できないとしたら、すぐ自転車の使用を止める違いない。
上と下、これらは犯罪的 (政治家とは何? をも参照)
最後に、役所の手先は帽子を脱いで見送る。
やっと、公園の入口に着いた。
水道の故障で水は出て来なくても、管理所の書いた決まり文句は常に目に入る。
さあ、これからが看板・立札だらけの本番だ。
15m行ったところにまた同じ看板:
さらに15m行くと、別の立札がある。でも、内容は同じ:
さらに20m行ったところに、また前と同じ看板:
さらに30m先にも:
上の看板から6m右:
上の右看板の後方の木に貼られた札:
こうした札で飾られた木は、この一本だけではない。下のような禁止リストもあるし:
犬の飼主への忠告札もあるし:
人々に恐怖心を植え付けること、それは支配者(政治家)が社会を支配するための「いろは」である。
日本では特に、子供に対する性犯罪によって人々に不安感を起こさせているように思える。
下記の様なポスターは、子供たちに性犯罪に対する恐れを喚起するためのスクールプロジェクト?
日本に来て日の浅かった当時は、こうしたポスターは自分の様な怪しい外国人に向けられたものかと思った。
上の様な看板やポスターは、子供を守るのだろうか。あるいはかえって人の頭に変な考えを吹き込むのことになりはしないのか。こんな看板が多いと、子供に対する犯罪が普通のことのように思えてはこないか。こうした看板がなければ、子供がセックスの対象になりうることなど考えもつかないことなのに。。。
いずれにせよ、日本では子供に対する最大の犯罪を犯しているのは社会(親や学校)である。知能教育のため日本の学校での授業は午前中だけではなく午後も行われる。それでも充分でないのか、ほとんどの子供達は塾にも行かせられる。ドイツをはじめヨーロッパの義務教育校は、さらに高校までも、授業はほとんど午前中で終わり、生徒達は家で昼食をとり、午後は全くの自由時間だ。
子供達を学校や塾に行かせさえすれば、頭が良くなると考える親達は愚かである。こうした愚かな親の元で利口な子供が育つはずはない。ただの詰め込み教育では、自分が自分自身であることを学ぶことがなく、自分らしさを身に着けることなどできない。
不審者警告看板から3メートルと離れてないところに今度は駐車禁止の看板。ここでも標識だけは足りないのか。この道も交通量は少なく駐車は問題ないはずだ。
私は目撃したのは、レッカー車が「駐車違反車」を後ろから持ち上げ、レッカー移動したことだ。ハンドルが斜めの状態で駐車していた車だったため、引っ張っられた車は斜めに車線からはみ出していて、他の交通の障害になっていた。車の操縦装置もこのレッカー移動で障害を受けたと思う。
上の電信柱からすぐ左には:
ドイツの場合は下記の標識だけですむ:
と
<居住者フリー>
ドイツでは標識のものの数が多いので(関心のある方は:http://de.wikipedia.org/wiki/Verkehrsschilder)、正式の標識、すなわち決められたサイズと内容以外の札は法律的に何の価値もない。日本の様なファンタスティックな禁止立札はほとんどない。あったとしても無視して何ら問題ない。
上の立札の道の右側にある立札:
私の日本人愛読作家のひとりである中島義道は”車が来ないのに赤信号で待つのは阿呆ぽい”と書いた。全く同感。
人々は、意味のない行動を強いられることによって、独立心や自尊心を傷つけられ、やましい心を植えつけられる。これは為政者が、人々を臣下や信者のような従順な人間に変える最も効果的な方法である。
上の様な交通量の少ない道路に信号を設けることが、そもそもナンセンスだ。車が来なくても先ず押す、そして青になることを待つ。その間車が来ると、車は赤になったから、待たなければならない。本当に阿呆。その上エネルギーの無駄。だが、どこかで、為政者と繋がりのある人々がこのように必要のないがらくたで利益を得ている。これは、天下りという犯罪である。日本ばかりではない。世界中にこうした犯罪は蔓延っている。政府こそ最大の環境汚染である。
(ところで、ドイツの場合、歩行者が交通信号 を無視した時でさえ、見つかれば警察に運転免許所有者であることまで調べられ、違反点数の対象となることもある。)
ところでこの公園は10分程で回れる小さい公園であるが、入口に立てられた上記の地図の隣りの看板は人々に色んな注文をつける。
子供たちに対する禁止もある。少なくとも、つまらないブランコを面白くする効果があればいいが。。。
子供がブランコしている間ベンチで待つお母さんたちにも長い警告テキストが待ち受ける。
またまた:
この札の前は私のお気に入り場所だった。なぜなら、ここから12枚の放し飼い禁止立札のパノラマを楽しむ事ができたからだ。当時、新しくされた大きな札の隣りには、小さな古いものも残されていた。残念ながら、今は7枚になってしまった。
居住者専用道路で見たエコ看板:
CO2が地球温暖化の原因であるというのは馬鹿者向きの最悪の嘘だ。なぜこの嘘が世界中で広がっているのか。税金の形で国民から金を奪い、エコの為と言って不必要な消費(嘘のエコ消費)を促し、多くの人々を貧乏化に導くことに役に立つからだ。
CO2の害は非科学的。CO2温暖化説に名前の貸す科学者はナチの時代の民族的優越論者と同じく、科学を冒涜している。
CO2そのものは植物の命を支えてくれる害のないものである。害があるのは、環境汚染や資源無駄使いだ。すなわち、不必要な消費、だれも嬉しくしない消費をさせる国家こそ、資源の無駄使いの張本人なのである。
この小さいプラスチック札も無意味なゴミ、環境汚染の原因だ。
ゴミよりもっともっと目障りな札:
不法な事を禁ずるのは、当たり前じゃない?
危険?何が?。フェンスがあるのだから坂に落ちることはないはずだ。
危険の警告と関係ないと思うが、背景にある家で2000年12月30日4人家族が殺害された(世田谷区一家殺人事件)。殺人犯は今なお逮捕されないでいる。捕まったら、死刑に処されるに違いない。日本の死刑制度は、ヨーロッパ、特にドイツから強い批判を受けている。だが、私は死刑制度廃止には反対だ。殺人犯には時効を適用せず、しかもどの殺人に対しても死刑を執行するべきだと思う。防衛以外(命、自由と財産を守る以外)人を殺すのは許せない。
帰り道は神社の境内を通って近道をする。何だ?今まで見たことのない新しい札!近道するのもだめか。
遊ぶのもいけない?遊びたくなんかない!
もう、沢山だ!早く家に帰りたい。袋はウンチとゴミではいっぱいではないが、カメラはそろそろ写真でいっぱい。
下に水道メーターがある。ゴミで埋まるのはまずい。なるほど。
このバス停のベンチは違法だ。個人が置いたものだから。下の椅子も。警告看板や禁止立札に税金を浪費した役所は、役に立つベンチを買う金がなくなるに違いない。
東京から田舎の方へ逃げることができても、目障りな警告看板や禁止立札から逃げることはできない。田舎の家の海岸は、遊泳禁止の立看板で賑わっている。水のない所も。。。釣り禁止の札は要らないのだろうか?
ホルガー ・H・ハウプト