譬(たとえ)

聖書には譬が多く、その意図はしばしば疑わしいものです。例えば「放蕩息子」の譬が意味するものは何でしょうか。この譬は、町へ行って、大酒を飲み、財産を使い尽くせと言っているのでしょうか。それは畑仕事に勝ることなのでしょうか。
「ラザロ」の譬もそうです。ある金持ちの家の軒下に宿借りし、施し物で生活し、不潔で怠け者のラザロはパラダイスに入りましたが、熱心に働き、心の優しい、金持ちの男は地獄に落ちました。その意味するところは何でしょうか?
神は私達を苦しめずにはいられないという事でしょうか。この世で貧しい生活から抜け出した者は、あの世では神から残酷に扱われると言う事ですか。
キリスト教は、この世でひどく貧乏で哀れな生涯を送った者は、次の世では楽園に行くに違いないと教えます。でも、それは論理にかなった事でしょうか。
バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)は次の譬をあげました: 「農家からりんごの袋が届きました。最初の一袋を開くとりんごが腐っている時、ああ、次の袋には素晴らしい、美味しいりんごが入っていると思うでしょうか。」
違うはずです。特にりんごの袋が同じ農家から来た場合はそうは思わないでしょう。この世で貧しく、悪いことばかり重なる人が、どうしてあの世はきっと素晴らしい天国だと思うのでしょうか。常識の外れの宗教の影響ではないでしょうか。
「There is a pie in the sky,that is a bloody lie!」 これはイギリス労働組合のスローガンでした。つまり、スカイにはパイがない、すべてはきたないライ(嘘)だということです。貧しい生活から抜け出すためには自分で闘わなければならないのです。死後までも慰めのうまい話に騙されないでください。
牧師も、もみ手をしながら、こういう事を言います。 「貧しさによって人間は純化されるのです。(つまり、後世で清い心で神の所へ行く...)」 実際は、これも違います(大体、教会の教えは現実と違います)。貧しいスラム街を見れば、貧しさは人間を純化するのではなく、獣(性)化するのがわかります。
貧しさで悩んでいる人へのアドバイスは、ひざまずき、祈ることではなく、また、暴力にうったえ、犯罪を犯すことでもなく、知識と能力を集約し、働き、努力すれば、貧乏から抜け出す道が開かれるという事です。

世の中には様々な宗教があります。昔、宗教は互いに争い、殺し合いに発展しました。しかし、啓蒙時代を機に宗教を信じる人は減りました、現在では、宗教の信者は他の宗教を昔の様に恐れません。現在、宗教の大敵は宗教を本気しない人達です。世界中どんな民族でも宗教の信者は神の存在を知っているから(もっとも、昔は対立する宗教の神は悪魔でしたが)、彼らは神はいると論理します。それで本当に神の存在を証明出来るでしょうか。
ボンディ博士(Hermann Bondi,自然科学者で無神論者)はこの論証に対し、譬を好む信者のため次の様な譬を考え出しました。
「交差点の真ん中に女性が倒れています。数人の目撃者がいます。一人は、南から来て東へ逃げた黒い乗用車が突き当たったと言います、もう一人は、東から来て西へ逃げた白い乗用車だったと言います。三番目の人は、西から南へ逃げた赤い乗用車だった、四番目の人は、北から東へ逃げた青い乗用車にぶつかった、と誓います。そういう矛盾した目撃者の証言から、乗用車が女性に突き当たったと結論づけるのでしょうか。トラックやオートバイとの衝突は除斥出来ますか。彼女が自ら倒れたのは可能性はないのでしょうか。」
神の存在を証明する人の数々の証言の違いは、上記の事故の目撃者達の証言の違いよりはるかに大きいものです。キリスト教の神は三位一体で、十戒の第一によれば、その神は唯一の神であり、その他のものを神としてはならない。もし、それに反すれば永劫の地獄の罰が与えられると言います。次の神が、「私は一位一体の神で名前はアラー。キリスト教の信者は馬鹿。彼らを打ち殺せ(コーラン、9。30)」とマホメットに言ったら、同一点は何でしょうか。互いの排斥ですか。

さて、その倒れた女性の話にもどりましょう。宗教の信者はいつも、宗教は人間を善良にすると豪語します。でも、実際はどうでしょうか。
無神論者を含めだれでも、普通はあの交差点で倒れた女性を助けるでしょう。しかし、よく考えてみると、正教派のユダヤ人なら、彼女が生理で汚れてるかもしれないと女性を触るとは考えられません。ヒンズー教の信者も、彼女が不可触賤民だったら手を出さないでしょう。ベイルート、スーダン等のイスラム教とキリスト教の紛争地域では、彼女は同教徒でなければ助けられないかもしれません。北アイランドでは、同じキリスト教の中のカトリック信者とプロテスタント信者は互いに憎み合い助けることはないでしょう。石を投げるかも知れません。石を投げるといえば、信心深いキリスト教やイスラム教の社会では不貞をはたらいた女性は石で投げ殺してしまいます。よくあった習慣です。
宗教により人間が善悪を判断できるようになるというのは疑問です。

ハウプト ホルガー

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